この記事おもろかった
高田里惠子さん
https://digital.asahi.com/articles/AST3X2GH7T3XUPQJ017M.html
教養や教養主義の衰退とは、それらが少数の特権的地位にいる人たちのものではなくなり、「脱・優等生戦略」としての役割を終えたことを意味します。1980年代の「ニューアカ」ブームでは、難解な現代思想書を読む「カッコよさ」がパロディーになるまで極められましたが、これが教養主義の最後の花火でした。
本を読まない人が覇権を握り、昨今の高学歴の若者は、もはや文化的カッコよさを求めたり、知的ヒーローへの憧憬(しょうけい)を抱いたりはしない。月刊誌「ユリイカ」を小脇に抱えデリダとかラカンとかゴダールなどとつぶやく場所を与えられるより、ネットの世界で評価される方が楽しいでしょう(笑)。背伸びをしなくなったし、それはまさに、ネットでは背伸びをした人を冷ややかに見てたたく風潮があるからかもしれない。また単純に、教養を追い求める余裕を多くの人が失っているという側面もあると思います。
ビジネスマン向けの「教養本」は売れているようですが、これは単に知的好奇心や、人口の一定数いる「歴史好き」によるものでしょう。私の定義する「自分自身を自分自身で作り上げる」「純粋さ競争」という意味での教養とは、ほぼ関係がないと思います。
とはいえ、教養が完全に死んでしまったわけではない。昔のように声高に人格修養を叫ばなくても、人は自分の人生を自分で構築している手応えが欲しい。その手段や対象は、かつては文学や哲学、芸術でしたが、現代ではボランティア活動とか社会奉仕、田舎暮らしに変わっているのかもしれません。それらをあえて選んで実践するには、やはり余裕が必要です。教養の対義語は以前は「立身出世」。そして今は「コスパ」「タイパ」なのでしょう。
自己形成と純粋さ競争という教養の根本がある限り、それはなお続いているのです。
@odakin@social.vivaldi.net
俳句を発見しました!
『教養や 教養主義の 衰退と』
『昨今の 高学歴の 若者は』
『「ユリイカ」を 小脇に抱え デリダとか』
『ユリイカ」を 小脇に抱え デリダとか』
『」なのでしょう 。 自己形成と 純粋さ』
『純粋さ 競争という 教養の』