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twitter.com/gamayauber01/statu

このあいだの、このツイートに、たくさんリプライが付いていて、びっくりしました。個人主義についての疑問が多かったので、それだけ、応えておきます。

(個人主義の「主義」は、民主主義の「主義」とおなじで、言葉の内容が示すものに、しっくりこないし、論理的におかしいが、他におもいつく日本語もないので、このまま使います)

乱暴に言ってしまえば、個人主義とは、どこに立って世界を眺めるか、という観点の問題です。

株価が高騰して「やった。日本の繁栄が戻ってきた」という人と「給料が安すぎて満足な広さの家も借りられやしない。なんで、日本は、こんなにビンボなんだ」というふたりの人が同じ年収だということは十分ありうるが、後者は個人主義の観点に立っているのだ、と言っても、そんなに大袈裟な事を述べたことにはならなさそうです。

X (formerly Twitter)James F. ガメ・オベール (@gamayauber01) on Xこのあいだの、このツイートに、たくさんリプライが付いていて、びっくりしました。個人主義についての疑問が多かったので、それだけ、応えておきます。…


全体を考えるのは総べてよろしくないかというと、もちろん、そんなことはなくて、例えばまたまた経済でいうと、 「日本経済は巧くいってないというが、重電は最高益を塗りかえている。キャノンや日立は絶好調だ」という人が必ずいるはずです。

「まず全体を繁栄させて個人に還元(例”トリクルダウン)させる理屈に従って、全体側に立って考える」ことの難しさは、そういう所にある。 自分のオカネがかかっている人は、だいたい誰でも分かっているとおり、円安誘導の八百長レースの勝者みたいな企業の代表で、工場も主要工場は日本国内にあって、円が安くなればなるほど、ほとんどダイレクトに増益につながるキャノンのような「国内生産輸出会社」は、そりゃ、好調になります。逆に、このところ米国内でGOPを中心にだんだん尖鋭化しつつある 「日本の円安誘導は懲らしめられるべきだ」派は、キャノン型の輸出企業群のはしゃぎぶりを苦々しくおもって、それを理由に強硬化している。

ひとつずつ説明はしないが、円安誘導と市場心理に過剰に期待する日銀の政策上の問題など、すべて、表面の数字とは異なって、喜べる要素は少なくて、どちらかといえば、この期に及んで、こんな見せかけだけの「好景気」をつくろうとする日本の支配層は他国からは、呆れられていて、 これからどんどん定着性のない海外資金が流れ込む、簡単にいえば「賭場」の好景気が続くだろうが、その向こうは、当たり前だが地獄で、しかし特に現代における「全体経済」は、おおくの経済や市場分析手法とは縁遠い人には、理解力を越える複雑系と化しているので、金融工学の知識がなく、例えば、CDOが、なぜ畸形ファイナンスプランどころか、犯罪なのかすら説明できない人が、考えて、「分析」して、「うまくいっている」とか「うまくいっていない」と判断するのは、ほんとうは難しいのではないかと思います。

過去の「全体」と較べても、現代の「全体」は、比較できないほど複雑で、だからこそ、その複雑さに耐えきれなくなったひとびとのあいだで生まれた陰謀説が世界中のあちこちで吹き出している。

個人の観点は簡単です。 「なんでおれの夕飯は、こう毎日毎日、半額タイムのお惣菜なんだ!」と怒っている人は、個人の観点に立って、「国の繁栄」を見ている。 政府が、この人に対して、市場がどんどんよくなっていけば、やがてはきみも、ぼくみたいに3000円のカレーをランチに食べられるようになるんだよ、と述べても、なかなか説得されてくれそうもありません。

一般論は、正当な一般則を見いださなければならないので、通常の人間には難しくて、全体主義社会の管理者は、通常、そこにつけ込みます。

戦前、「満洲は日本の生命線だ」というのは日本の国策を考えるうえでの公理でした。
疑う人間はバカだった。

なかには新聞言論世界や議会に突拍子もないおっちゃんたちがいて、「日本は貿易立国をめざすべきだ」と述べて、満場の失笑を買ったりしていたが、このアンポンタンなおっちゃんたちだけが実は真実を述べていたのが判るのは、このころからおよそ四半世紀を経たあとでした。

odakin


最も理解が簡単そうな経済を例に説明しましたが、他のこともこれに準じている。

「個人主義とはなにか」のほうは、ブログ記事のほうに詳しくは書くとして「個人主義でいる自分の状態」みたいな説明のほうが、現実の個人としては判りやすいかもしれません。

個人主義に馴染んで?いる場合、自分と異なる意見や考え方のひとと接した場合の反応は 「この人は、こうなんだね」 でしょう。

個人主義に適した世界との距離感とは、そういうものでありそうな気がする。 相手に対して良いや悪いが即座に出てくる距離感は個人とは遠いものです。

考え方や意見に限らず、例えばトランスジェンダーの人と初めて会った人でも、普通ならば 「この人は、こういう人なんだ」 でなければおかしいような気がする。 逆に、「女のくせに」とか「女なのに」というような社会性が強い言葉が頭に明滅する人は、 知らないうちに自分が生まれついた社会由来の「全体主義」に言葉が冒されている。

「事実をありのままに見る」ことが出来るかどうかが個人主義の人間の条件であるようにおもえます。


ついでなので述べると、わしブログを読んで「考え方が似ているから丸山眞男や加藤周一、山本七平の本を読んでみたらどうか」と教えてくれる人がたくさん来たので、まだ数冊だけだが、読んでみての感想は、山本七平さんは戦争体験の本しかまだ読んでないので置いておくとして、丸山眞男や加藤周一は文化的な焼け野原のあとに建設されつつある、あるいは建設予定の西洋文明への危惧について述べているものが多いが、いまの日本人は、見事なくらい彼らの予想通りだった 「書割西洋文明」の上で生まれて、成長してしまったあとの世代なので、いまの日本人に参考になるようにはおもえませんでした。 いまの若い世代が読むと、「なんだか当たり前の話」としか読まないのではないでしょうか。 この3人に限らず、いまの日本語の本で、いまの日本人が生きていくための参考や考える材料になりそうな本は皆無のように見えました。

付き合いが長くなった年長友の田村均先生
@chikurin_8th が「最も効率的な知の獲得法は巨人の肩に乗ることだ」と述べていたが、そのためには巨人がハリボテでないことが必要で、丸山眞男や加藤周一を読むと、間違った巨人を選びはしなかったが、現実の巨人には乗り損ねた、奇妙な印象を受けます。

多分、日本語に内在的な不備のせいだという気がしました。

個人の観点を定点として世界を見るのは、日本の人にとっては、おもいのほかむずかしいことなのかも知れない、と考え始めたのは英語社会に10年20年と住んでいる日本の人でも個人としての自分が確かに内在している例は少ないように見えるからで、どうやら、最も簡単な個人主義への移行は、日本語を捨てて英語なら英語で考えて感覚する生活に移行することであるようです。
しかし、その場合、英語人と化して日本語人でなくなってしまっているわけでしょうから、なんだか、やっぱり難しいなあ、とぼんやりしたことを考えます。

その他、たくさんの人がリプライを書いてくれたおかげで、自分自身が「個人主義とはなにか」を考えるための助けになったので、お礼を述べておきます。

あ。ひとつ、やや本題とずれたことに気が付いたので、付録で書いておきます。 判っている人も多いので余計なことだけど、アメリカ合衆国という国と、その社会は、 英語社会としても自由社会としても、極めて特殊な存在なんです。 通じないだろうことを覚悟していうと、戦後日本と独立革命後のアメリカの事情には歴史的水脈と現在の関連性において似たところがあるかもしれない。

アメリカは手続き主義の国で、個々の国民が信奉している「自由主義」は実際には欧州の全体主義とかなり類似している。

まあ、こっちの「深堀り噺」のほうは、いかにもツイッタには向かないので、これ以上、ここには書きませんが