「能動性」をもって趣味生活の価値とする主張には、疑問を抱いている。
・認識の問題として能動性/受動性を区別することが困難だというのもあるし、
・そもそも能動的であることに意味があるのかという疑問もあり、さらには、
・現代の「推し」文化の下では、個人の能動的参加に見えて、その実、システムによってあらかじめ提供されたお仕着せにすぎないという危険性もある(例えばアイドル総選挙の枠内で能動的-主体的-積極的に投票行動することは、本当に主体的と言えるのか?)。
読書や映画鑑賞、舞台鑑賞などは、個人のユニークな物理的行動を伴うわけではない。そういった外形的な側面だけを抽出すれば、「受動的」だと呼びうる余地はある。しかしそこには、活発な精神的作用があるし、何を選ぶか、何を好むか、何を見出すかという点でも個人ごとのユニークな能動的-主体的な選択は確かに存在する。大切なのはむしろその作用だ。
望ましい趣味生活のメルクマールとして提起される能動性/受動性の基準は、「受動的」とカテゴライズできる特定の趣味を貶めようとする文脈であることが多いように感じるし、提起されたその枠組自体を嫌疑にかけるべきだと思う。
能動性/受動性の議論は、「趣味○○はただ(受動的に)消費しているだけ」という主張とも結びつきやすい。その点でもさらに一面的な主張になりやすく、相当慎重に扱わなければ危ないと思う。
そういえば、以前にも別のところで同じようなことを書いていた。
https://twitter.com/cactus4554/status/1598863836043673600