1: 伝統、すなわち「ある慣習が一定期間存続してきたこと」それ自体には、あまり意味は無い。
2: しかし、存続期間の長短にかかわらず、ある集団の文化と認められるならば尊重すべきである。
3: しかし、特定の社会慣習を国家的に強制してはならない。
4: そして、その慣習が社会の円滑な運行にとって妨げになっているならば尚更だ。
こう考えると、元号を使いたい人たちは使えばよいが、公文書等では用いない方がよいということになるのではないかなあ(※ちなみに、「西暦も一つの文化の所産である、すなわち必然的普遍的な規則性認識の形態とは言えず、それが優位に置かれるべきではない」という主張も成立しうるが、暦法としては差し障りが小さく、それゆえさしあたりはおおむねグローバルに中立的として良いかと思う)。
ただし、「グローバルなものに合わせろ」「マジョリティに合わせろ」という論法には警戒したい。
例えばヤード・ポンド法は、あれはあれで一つの文化であり、使用者たちの世界認識の基盤を成している。日本のネット界隈ではしばしば冗談としてYP法を滅ぼせ云々と言われるが、あれは一つの文化――比較的マイナーではあるが使用者が確かに多数存在する生活文化――に対する、端的な絶滅の主張に他ならないわけで、異文化に対する深刻な攻撃性を発揮してしまう言葉だと考えている。冗談でも言うものではない。